「百合」という言葉の定義について

大前提として、このチャートには無関係

そもそも、なぜこのチャートを作ろうとしたかと言えば

百合の定義がないから

です。

ならば、百合を定義したらいいじゃないか、と、仰るでしょうが、それはもはや不可能ですし、
現状で定義したところでまた拡散するだけです。

で、実際

そんな情況の中、百合好きはどうしているかといえば・・・・・・

自分なりの定義

を行っているのです。

これも、致し方のないことで、そうせざるを得ない、自分の求めるものは「百合」だったはずで、「百合」の看板を掲げていたから入ってみたら、ぜんぜん合わなかった。そういうことはままあります。となれば、「百合」よりも詳細なジャンルにターゲットを絞るか、「百合」の定義自体を自分で再定義するか、という2択に迫られます。
しかし、現状まで、「百合」に内包されるジャンルを指す言葉は、浸透していません。

id:otomoさんのコメントにもありました(otomoさん、ありがとうございました)とおり、そもそも「百合」は「薔薇」のカウンターパートとして生まれた言葉です。
となれば、その下には「BL」のカウンターパートである「GL」などがあって然るべきですが、残念ながら浸透していません。

原因は、「百合」という言葉の響きがあまりに美しすぎるために、出来るだけ「百合」から離れたくない、という思いがあるからだとおもいます。
「女の子の世界」という世界観が持つ「きれいさ」に「百合」ということばがあまりにフィットしすぎているのです。

中里一に寄り付くべきか?

小説家、中里一氏が定義をされております。
http://kaoriha.org/menu.html
(Mr.Ronjaさん、ありがとうございます)
確かに、非常に優れています。

「非レズビアンの立場から書かれた非ポルノの女性同性愛(もしくはそれに近いもの)のストーリー」

本来的には、もうこれで十分ではあるのですが、しかし、現状を鑑みるに、もう少し進まねばなりません。


ボーイズラブの事例から類推するなら、現在の百合は、「予兆」をすぎた段階にあります。
 イデオロギー面からみるなら現在の百合は、古いイデオロギーを投げ捨てた直後です。
 百合はその一定の存在感にもかかわらず、イデオロギーの力を欠いています。これは、新しい有力なイデオロギーの出現を招く状態です。
 経済面からみるなら、現在の百合は、大きな負担に耐える少数者によって支えられている段階にあります。もっとも不足している要素は、イデオロギーの力です。
 今後、百合は新しい有力なイデオロギーを見出すと考えられます。これは現状の停滞を徐々に打ち破って、加速度的な発展をみせるでしょう。
 現在の百合のイデオロギー、「身近な愛」が十分に強力なもので、すでに加速度的発展が始まっている、というシナリオも考えられます。このようなシナリオを支持する証拠は見当たりませんが、ありえないとする証拠もありません。
(以上二つは上記サイトより引用)

このことに添っていえば、ぼくが明示しているのは「『イデオロギーがない』というイデオロギー」です。

拡散し続ける「百合」の畑に「掘」を掘るのではなく、「柵」を立てて見栄えをよくして、わかりやすくしよう、ということです。

「百合」は性愛か?


1.新約聖書の原語であるギリシャ語には、愛と訳される言葉が4つあります。

 ◆エロース(恋愛、夫婦愛)……これは初恋から始まり、本格的な恋愛を経て結婚し、夫婦愛となるもので、肉体的には性愛です。

 ◆ストルゲー(情愛、肉親愛)……これは親子、兄弟姉妹などの血縁の極めて近い者に対する愛です。

 ◆フィリア(友愛、朋友愛)……これは自分の好みに合い、自分と共通な場を持つ者に対する愛です。

 ◆アガペー(聖愛、神的愛)……これは人間が神の像に似せて造られた不滅の霊を持つ尊いものであるゆえに愛する愛です。

2.真の愛は、自分にではなく、相手に価値があると判断して愛するものです。

このエロース(恋愛、夫婦愛)とストルゲー(情愛、肉親愛)とフィリア(友愛、朋友愛)という3つの人間的な愛は、その相手が「自分にとって価値がある」と判断して愛するものです。これは対人関係においては、互いの価値を認め合い、良いものを分かち合うことによって成り立っています。
 これに対してアガペー(聖愛、神的愛)は、主がイスラエルの民に「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書43章4節)と仰せられたように、また「キリストが代わりに死んでくださったほど」(ローマ人への手紙14章15節)、「相手に価値がある」と判断して愛するものです。

3.真の愛は、3つの人間的な愛を拡大したものではありません。

◆エロース(夫婦愛)の対象は、夫または妻という一人の異性であり、この愛をほかの人に広げるならば、姦淫の罪を犯すのです(マタイの福音書5章27、28節、箴言5章15−20節)。

◆ストルゲー(肉親愛)の対象は、肉親だけであり、この愛をすべての人に広げることは不可能です。もし私たちが、すべての人を肉親愛で愛するならば、その苦しみのために正常な精神を持つことはできないでしょう。

◆フィリア(朋友愛)の対象は、友人だけであり、この愛を自分の好みに合わず、自分と何の共通点もない他のすべての人に広げることは不可能です。

 なぜなら3つの人間的な愛と真の愛(アガペー)とは根本的に異なるからです。真の愛(アガペー)は、すべての人を愛して、人を差別しない愛です。しかし3つの人間的な愛は、ある特定の人しか愛せない(または愛してはならない)愛であり、それは結果的には人を差別する愛なのです。

 日本の諺に、「可愛さ余って憎さが百倍」、「愛多ければ憎しみもまた多し」、「愛憎は表裏一体をなす」、「愛憎は紙一重」、「愛は憎悪の始め」とあるように、この3つの人間的な愛は、聖霊による真の愛(アガペー)を持たない限り、自分の思い通りにならないと、愛していながら同時に憎んでいるという心の状態になるのです。

(「東京フリー・メソジスト昭島キリスト教会」甲斐慎一郎氏 説教要約15「真の愛について」より引用)
http://www.geocities.jp/pascalianx/mes15.html

  • エロス
  • ストルゲー
  • フィリア
  • アガペ

百合の諸問題のうちの多くは、この言葉が解決してくれそうです。
プロテスタント系のサイトから引用したので、聖書に則り同性愛については禁じる傾向ですが、当然華麗にスルーします。また、キリスト教以前の古代ギリシアから使われている言葉なので、宗教的イデオローグはそれほど気にしなくても良いはずです)

即ち、「百合」を定義する方々の根本的相違は、「エロス」を包含するかどうか、という一点が多くの場合にあります。

「百合」と「エロス」

また、時としてこれらの愛は
アガペ
エロス
ストルゲー
フィリア
の順番にピラミッドの形で解説されることもあります。

「百合」の対立を、この定義で解釈するならば、

  • 非常に深いフィリア、あるいはエロス・ストルゲーと見まごうようなフィリア
  • (フィリアから進み、行き着いた先にある)エロス

この二項の対立として説明できるでしょう。

中里理論を完全に受け入れられないわけ

先述の中里氏は、完全に後者といえるでしょう。派閥的にいえば「写実派」ですね。段階的には前者よりも一歩進んだ状態なのですが、エロスは美しくないものを排除する性質があり(プラトン)、排他的な「二人の世界」を構築することもしばしばです。

この、一歩進んだ状態はかなり「オトナ」な感じです。
しかしながら、この「オトナ」感を疎ましく感じる派閥もあり、それが「少女派」「エス派」、「世界派」の一部あたりです。
手前段階の「自意識」の芽生えあたりが最も美しい、と感じる層もあるのです。

例を挙げると、マリみてが最適でしょう。
佐藤聖は「フィリア」ではなく「エロス」の部分を明確に持ち合わせていますが、多くの登場人物は「フィリア」、あるいは「ストルゲー」ですね。というよりも、「スールシステム」によって擬似的に「ストルゲー」の愛情関係を構築しているともいえます。従って、より深いともいえます。

これ以外にも、タブー派、葛藤派などは(独特の)エロティシズムを重要視したり、そもそもそんな愛とかあまり気にしないキュート派が存在するわけです。

で、どうするのか

どの派閥が「真の百合である」とか中里氏の言葉を借りるならば「純正な百合物件」であるとか、そういったことをしない、ということは再三再四述べております。たとえ、「百合」という言葉のイメージ先行で名付けられている「ふたなり百合」であろうとも、現状ではどれも等しく「百合」でしょう(実際、ふたなり作品や女装男子作品でも、写実派や世界派がゾクッとするような作品はあるわけで)。将来的に、再構築が起こるでしょうが。
その来るべき再構築の時のために、こうやって、「柵」を組んでおこう、ということです。

とはいえ「百合」という言葉に対して特別な思い入れがあるかたは少なくないでしょう。だからこそ『派閥』という形で表しているわけです。もっとも、「ふたなりが好きな奴らなんかと同じ枠内にされたくないわ!」というかたもいらっしゃるでっしょうが、そこは、ジャンルの拡大に一役買っていると思っていただきたいです……(例:高橋てつやさんの「ほのたん」など)(このあたりは、中里氏と共通の見解です)